野村証券(野村ホールディングス)の歴代社長の一覧(評判・評価)

名前 評判・実績・評価など

野村徳七

(のむら・とくしち)

野村徳七
創業者

【就任期間】
1904年~
1945年1月

【生まれ】
1878年8月

【死去】
1945年1月、死去。享年66歳。死因は狭心症。

野村証券の創業者。実家の両替商を継いだ後、証券業へと業態を転換した。

自ら相場師として天才ぶりを発揮。株で稼いだ資金で会社を拡大させ、野村財閥(野村グループ)を築いた。

生い立ち

1878年(明治11年)、両替商の二男として大阪に生まれた。元々の名前は「野村信之介」だった。兄の卯一郎氏が3歳で亡くなったため、「長男」として位置づけられるようになった。

大阪市立商業高校に入学。ボート部主将を務める。3年生のときに街で喧嘩してけが人を多数出し、退学処分になった。素行不良の問題児だった。

父に証券参入を訴える

高校在学中から、両替商を営む父親に証券ビジネス参入の必要性を訴えた。 両替商は堅実だが将来性がなかいと考えたからだ。 利幅も大きくはなかった。債券と株式の引き受け業務なら成長できると考えた。

証券会社で修行する

高校を退学処分になった後、姉キクの嫁ぎ先だった小さな証券会社「八代商店」に入社する。証券業を学ぶ目的だった。 素行不良であるが故に、父親としては「身内の会社じゃないと預けられない」と考えたようだ。

自己売買を経験

八代商店には、営業担当(外交員)として入社した。 入ってみると、営業マンたちは勤務中に自己資金で株の売買にいそしんでいた。 それを真似してやったら、うまくいった。 株の才能があったのだ。10人くらいの会社の中でナンバー1の利益を出した。

信用取引で大損

しかし、ある日、会社が外部から預かっている公債を、 会社に無断で担保にしたうえで信用取引を行うという犯罪行為を犯した。 しかも、巨額の損失を出してしまった。 直ちに経営者に報告するのでなく、なんと会社から逃亡した。

父親が尻ぬぐい

巨大な損失が出たが、父親が損を埋めて尻ぬぐいをした。 肝心の本人は、それまで貯めていた金で逃亡旅行を行ってしまった。なんとも図々しい。 逃亡中に徴兵にとられた。1898年のことだ。戦場には行かなかった。

1904年、「野村商店」の経営トップに

1904年、父親が創業した両替商「野村商店」を受け継いだ。 野村信之介という名前を改名し、父親と同じ「野村徳七」という名前に変えた。26歳だった。 当時、従業員数人の店だった。

後継者に選ばれた理由

数年前に死去した母親タキは、遺言として、「信之介を後継者にせよ」と言っていた。 父親(初代徳七)は、二男の実三郎を後継にしたいと考えていたようだ。 何しろ長男・信之介は暴走機関車のようで危なかった。 一方、二男は常識的で堅実だった。

妻の遺言

しかし、愛妻家だったこともあり、妻の遺言には逆らえなかった。 長男・信之介を後継者に指名した後、1907年で生涯を終えた。

証券業に参入

家業と継ぐと、株式の売買の取次を始める。 すなわち証券業に参入したのだ。 最初の数か月は、自ら営業に出た。

経営改革

同時に、経営改革に取り組んだ。

新卒採用

まず、学卒の採用を開始した。当時は、丁稚奉公(でっちぼうこう)が当たり前の時代だった。小さな個人事業としては、斬新な取り組みだった。

研修

また、新人に対する研修を行った。八代商店で働いたとき、何も教わらずに仕事を始めねばならなかったときの教訓を活かした。

女性事務員を採用

女性事務員を採用した。これも当時としては画期的だった。お客さんも驚いたようだ。

給料は高く

給料は同業他社より高くした。実績に応じた歩合給も出した。これによって競争が厳しい社風が生まれた。

手張りの禁止

外務員が自分の資金で株を売買する「手張り」を禁止した。当時の証券会社では手張り禁止は珍しかったという。

「調査の野村」のスタート

何といっても革新的だったのは、証券ビジネスに「調査」という概念を取り入れたことだ。 すなわち企業業績や市況等の調査を行ったうえで、証券の営業を行うという考え方だ。 リサーチの成果を営業に持たせ、それをセールスの題材にしたのだ。 「調査の野村」の伝統は、ここから始まった。

早耳情報ではない

当時、株式相場では「早耳情報」と「罫線(チャート)」が重視されていた。企業分析や経済分析は無視された。

しかし、徳七は「理屈」を持ち込んだ。調査結果を営業に教えたことで、他社に比べて営業の質が高くなった。当時としては異色の「株屋」経営者だった。

自らもデータに基づいて株取引

徳七は「(企業の)資産内容にメスを入れ、業績を検討して将来性を判断し、市場性なきものはこれを与えるべく協力すべき」と訴えた。 自らもデータに基づいて株取引を行った。

調査レポート「大阪野村商報」

調査に関する具体的な施策としては、 1906年に調査レポート「大阪野村商報」を発刊した。今でいう市況レポートだ。当初は徳七が自分で書いていた。

毎日新聞の記者を引き抜く

1909年には、毎日新聞の経済部の記者、橋本喜作氏をスカウトした。 徳七が毎日新聞に株式市場の日報を書いていた縁だった。

まずは橋本氏に1人で調査部をやらせ、やがて部下をつけさせた。 給料は記者時代よりもはるかに高額にした。

自ら相場師に

徳七は証券会社を経営するだけでは飽き足らなかった。 自己資金で売買する相場師となった。 会社(野村商店)の自己資金を担保に、大規模な信用買いを行ったのだ。

1906年の大勝負

1906年、大バクチに打って出る。 日露戦争(1904年2月~1905年9月)後の株式相場は、 10年か20年に1度の大きなチャンスだと考えた。 明治政府による金融緩和が株高を引き起こすと予想したのだ。

1906年の大相場

また、徳七は、野村商店が大躍進を遂げるためには、 相場で大勝利を収めて大きな資産を築かなければならないとも考えていた。

家を担保に借金

大勝負にあたり、会社の資産や個人の家などの全財産を担保にかけて、鴻池銀行から借金をした。 妻は大激怒した。

株価7倍で富豪に

結果として、バブルは起きた。株価は1905年5月ごろから上昇し、7倍になった。徳七の予想は大当たり。 信用買いが巨額な利益をもたらした。 見事に高値で売り抜けて、富豪になった。

次は空売りで大勝負

徳七はこれで満足しなかった。 株価がバブルがさらに膨らんでいるのを見て、今度は大規模な空売りを仕掛けた。

最後は無担保

再び、全財産を担保に目いっぱいの借金をした。 しかし、株価はそのまま上昇を続け、あっという間に損失が膨らんだ。 さらに資金が必要となり、最後は無担保で貸してもらった。

追証寸前で大暴落

追証をくらうギリギリのところで相場の暴落が始まった。 暴落は1907年1月に始まった。その前年からの上昇が一気に消えた。

日本有数の大富豪に

この暴落の結果、徳七は日本有数の大富豪になった。

アメリカ視察

余裕資金をたんまり稼いだ徳七は、欧米への視察に出る。 5か月間に及ぶ船旅だ。 アメリカでは、ニューヨークで最先端の証券会社を見学。 そこで、米企業の調査のレベルの高さを実感する。

社員50人に

このころには野村商店は社員50人になっていた。 徳七が外遊で不在の間は、弟・実三郎が会社を見た。

3度目の仕手戦「第一次世界大戦」

第一次世界大戦のとき、3度目の仕手戦に臨んだ。 1914年7月に大戦が勃発。 翌1915年になると、貿易統計で日本からの輸出が増えていた。 これに着目した徳七は株を買いまくった。 再び全財産を担保に入れた。 予想通り相場は上昇し、またしても大勝利を収めた。

引受業務の拡大

相場での成功と並行して、野村商店は、企業向けの引受業務の拡大に成功した。 阪急グループや大阪商船が顧客になった。 独裁者である徳七の即断即決が、顧客企業にとって大きな魅力となった。

銀行設立

徳七は、野村商店が米国の金融大手モルガンと張り合うためには、グループ内に銀行が必要だと考えた。

「大阪野村銀行」

そこで、1918年、傘下に「大阪野村銀行」(後の大和銀行、現:りそな銀行)を設立する。41歳だった。 最初は、徳七の側近でナンバー3の柴山鷲雄氏を銀行の経営トップ(頭取)に起用しようと考えていたが、本人に「しんどいから駄目だ」と断られた。

片岡音吾氏

そこで柴山氏が紹介すると言ったのが、元部下の片岡音吾氏だった。 片岡氏は日本興業銀行の課長を務めており、徳七は片岡氏に経営を完全に任せることにした。 名目上の頭取は当初、末弟の野村元五郎氏を充てたが、元五郎は留学を終えたばかりの未経験者であり、全くのお飾りだった。

証券部を設置

大阪野村銀行の発足から2年後の1920年、野村銀行の社内に「証券部」を設けた。公社債を専門に扱う部署である。 新銀行の証券部門にしては多くの人員が投入されたが、金融恐慌で大きな打撃を受けた。

証券部が独立して「野村證券」に

1925年(大正14年)、大阪野村銀行から証券部門を分離・独立させ、大阪野村證券を設立する。 これが、今日の野村證券の法人としてのスタートである。 投資相談部を創設し、債券や株式の投資の相談に応じるなど、他の証券会社にはない特徴を打ち出した。

野村銀行へ改名

一方、大阪野村銀行は野村銀行と改名し、一般の商業銀行として歩み始める。

世界進出に意欲的

徳七は世界進出に意欲的だった。野村証券の設立翌年の1927年(昭和2年)には業界で初めて米ニューヨークに進出した。

適材適所の人事

満州視察団に若手の奥村綱雄氏を抜擢するなど、適材適所の人事を続けた。

死亡

1945年(昭和20年)1月15日、死去。狭心症の発作で突然倒れ、亡くなった。敗戦も財閥解体も知ることはなかった。

家族

弟・実三郎

1880年生まれ。経営者である兄・徳七を支えた。COO的な役目だった。現場を切り盛りし、営業を鼓舞し、組織をまとめた。

いつも、暴君のような徳七と従業員の間に立った。従業員に恐れられていた徳七とは対照的な存在だった。自身に対する兄のパワハラにも耐えた。我慢強い男だ。

徳七が3度目の大バクチを始めたとき、負けて破産した場合に備えて、徳七の妻と子供2人のために、ヘッジの反対売買(空売り)を兄に内緒で行っていた。

1917年、グループの司令塔である野村商店の社長に就任。1920年、スペイン風邪により死去した。

妻・菊子

徳七の妻・菊子(山田きく)は、履物問屋の娘だった。

徳七は男尊女卑で、別の愛人があちこちにいた。夫としては冷淡な人間だったようだ。

長男・義太郎

1905年生まれ。徳七の後継者であり、徳七が亡くなった後、野村グループの総帥に就いた。 しかし、1945年8月24日、静岡県・熱海の別荘で死去した。父親の死から半年後の早世だった。

二男・節雄(ときお)

1911年生まれ。甲南高校(兵庫県)の在学時、車の運転中に阪急電車との衝突事故で他界した。

当時の野村財閥の企業

  • 野村商店(持ち株会社)=>野村合名会社
  • 野村銀行
  • 野村證券
  • 野村東印度殖産会社
  • 大阪瓦斯
  • 福島紡績

片岡音吾

(かたおか・おとご)

片岡音吾

【就任期間】
1925年12月~
1941年9月

【生まれ】
1881年2月

【死去】
1948年5月、死去。享年67歳。

野村徳七氏が率いる野村グループが、銀行子会社「大阪野村銀行」を設立するにあたり、興銀から経営トップとして引き抜かれた。

興銀から引き抜き

徳七は、野村商店を継いで以来、証券業務をビジネスの中軸に据えて大成功した。 さらに金融業を拡大すべく、1918年に設立したのが「大阪野村銀行」だった。 設立にあたり、側近の柴山鷲雄氏(元銀行員)が推薦したのが、元部下の片岡氏だった。 片岡氏は日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)の貸付課長をしていた。当時37歳。

経営を任される

野村徳七は片岡氏と面談すると、「このお金で銀行をつくり、育てて下さい」と言って、1000万円の小切手を渡したという。片岡が信用を高めるため有力者を銀行の看板に招くよう提案すると、野村はこう言って説得した。「自分は今日まで何のバックもなしにやって来た。いわば実力一本槍。銀行業もその精神でやって行く」。

当初は「取締役兼支配人」という肩書だったが、実質的には経営トップだった。

公社債の中軸に

片岡氏が社長就任あいさつに日本銀行へ行くと、井上準之助・日銀総裁から「ありきたりの銀行ではなく、欧米の公社債(引き受け)に比重をおいた銀行を作れば」とアドバイスを受けた。もともとが産業金融を専門とする興銀出身であり、片岡氏自身も私淑していた井上の言葉は、心底に響いたのだろう。 その言葉通り実践した。

1925年に証券部を独立

証券部をつくり、自ら部長を兼務。陣頭指揮に立った。1925年に証券部を独立して野村証券が発足すると、社長に就いた。 当初は公社債を専門としたが、株式へと広げた。

社長就任(大阪野村銀行)の年齢

37歳

社長就任前の役職

興銀の課長

出身校

一橋大学(東京高商)

出身地

岡山県

実績

債券の引き受けに参入

銀行設立後まもなく公社債の引き受け・売買業務に参入した。どこの銀行も手掛けておらず、独自路線を進むことができた。

ニューヨーク出張所

会社設立の翌年、早くもニューヨーク出張所を開設した。この時点でニューヨークに事務所があったのは、横浜正金銀行(後の東京銀行)と三井銀行くらいだった。

調査部門の強化

徳七と同様、調査部門の強化・拡充に取り組んだ。

辞任

投資信託の「損失2割補償」をめぐり対立

投資信託の参入をめぐり、当時常務だった飯田清三氏と対立する。飯田氏は、投信で損失が出た場合に「損失額の2割を補償する」と主張した。片岡氏は拒絶した。

徳七の裁定

グループ総帥の野村徳七の裁定により、飯田氏の案を受け入れる形で参入が決まった。 1941年、片岡は辞任する。 徳七は慰留したが、翻意しなかった。 後任社長には飯田氏が就いた。

公職追放

戦後、公職追放の処分を受けた。1948年5月、死去。


飯田清三

(いいだ・せいぞう)

飯田清三

【就任期間】
1941年9月~
1947年8月

投資信託を推進

常務時代、投資信託を推進した。投資信託の「損失2割補償」を社内に提唱。反対する片岡音吾社長と意見対立した。総帥・野村徳七を賛成に抱き込み、片岡氏辞任へと追い込み、後任の座に就いた。

投資信託を販売すると、1億数千万円の金が集まった。とりあえず成功した。

戦後、公職追放になった。


奥村綱雄

(おくむら・つなお)

奥村綱雄

【就任期間】
1948年4月~
1959年6月

【生まれ】
1903年

【死去】
1972年、死去。享年69歳。

戦後、44歳で社長に昇格

戦後、経営幹部が一斉に公職追放になったのを受けて、玉突きで社長に就任した。44歳という異例の若さだった。腹心である瀬川美能留氏(次期社長)らと共に、証券界の後発会社だった野村を業界トップへと導いた。

スケールの大きな経営者

戦後の証券業界の再建の基礎を築いた一人として評価されている。日本初の転換社債発行を実現。証券貯蓄推進のために配布した「百万両貯金箱」は大好評で、ピープルズ・キャピタリズムに火をつけた。スケールの大きな経営者でもあった。

社長就任前の役職

専務

社長就任時の年齢

44歳

人事の背景

戦後の野村徳七では、以下の4人が公職追放された。

  • 社長:飯田清三
  • 専務:高橋要
  • 常務:小松原友作
  • 常任監査役:大山謙吉

1947年8月の臨時株主総会で退任すると、取締役だった奥村綱雄が専務に昇格した。 他の2人の取締役は常務になった。 社長は空席。副社長もいなかった。 すなわち、奥村氏が経営トップになった。 翌1948年4月、奥村氏が専務から社長に昇格した。

社長としての実績

「野村」の社名を守り抜いた

「野村」の社名を守り抜いた功績は大きい。 戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は、財閥の名前を捨てるよう求めた。 奥村は体を張ってGHQに抵抗し続けた。

投信の復活

投資信託を復活すべく、GHQに1年近く通い、陳情し続けた。 GHQは難色を示した。 奥村氏は「投信部門が軌道に乗った段階で、野村本体から切り離して別会社にする」と約束し、説得を試みた。 その努力が実り、投信の再開が認められた。

関東電力の増資引き受け

関東電力の増資引き受けで大成功した。

投資を大衆へ

投資相談所

全国に支店網を拡大させた。それだけではなく、終戦から3年後には全国のデパートや駅近くに、「投資相談所」を設置した。 さらにその3年後の1951年には、各地に投資信託の窓口を設けた。投信の窓口は1953年2月の時点で全国620か所まで拡大した。

「積み立て投資」の発想

1953年9月、社内に「証券貯蓄部」を設置した。「百万両貯金箱」をつくって配布。1955年9月には配布数が10万個に達した。 この貯金箱にお金を貯めてもらい、毎月集金に訪れる仕組み。 5000円貯まったら投資信託を買ってもらった。「積み立て投資」の原型のようなものだった。

婦人集金係

「百万両貯金箱」の集金作業を担ったのが、「婦人集金係」だった。 家庭の主婦をパートとして採用した。発足当初は23人だった。 後に「婦人証券貯蓄係」(野村ミディ)と呼ばれるようになり、証券業協会が実施する「外務員資格」を取得するようになった。

証券代行業務の導入

日本初の転換社債発行を実現。これが後の東洋信託銀行の設立につながった。証券代行業務にも参入した。

東洋信託銀行設立

社長時代の最後の大仕事であった。 当初は信託設立を図ったが大蔵省の反対で断念。 代わりに、三和銀行、神戸銀行と共同で「東洋信託銀行」を設立した。

出身地

滋賀県

出身校

京都大学

生い立ち

実家(滋賀)は、窯元だった。 一人息子だった。 6歳とき、大阪の堺に転居した。

父親の菓子業が成功し、金持ちに

父親は大阪で菓子の製造販売を始めた 父親の商売は成功した。 金持ちのボンボンになった。

学生時代

京都大学では水泳部に所属。親から仕送り月100円を受け、経済的に恵まれており、祇園で豪遊した。

就職活動

就職活動は、三菱、住友、三井などの主要銀行を受けたが落ちた。 教授の紹介で、「大阪野村銀行」に補欠で入れてもらうことになった。 自ら希望して、大阪野村銀行のグループ会社だった野村證券に入った。 野村證券は数か月前にできたばかりの会社だった。

入社年次

1926年

入社後の歩み

調査部に配属

最初は調査部に配属された。 部長は勝田貞次氏。 その下に飯田清三氏(後の社長)がいた。

投資相談部へ異動

投資相談部へ異動。 金解禁の失敗を見込んで外貨投資(円売り)を推奨した。 地方銀行に対して、外貨推奨のパンフレットを配布。これが日銀にバレて、逆鱗にふれた。 事務部門に左遷された。

株式への進出を提言

株式へ進出すべきという意見を持っていた。 社内の飲み会で、 「社長(片岡音吾氏)が株式業務に慎重だからといって誰一人提言したものがいないじゃないか。こんなことでは野村はつぶれるぞ。茶坊主は引っ込め」と幹部に対して大声で一喝した。再び左遷となった。

新設の「株式課」に配属

1937年、株式課が新設されると、さっそく配属された。 株式課は以下の布陣。戦後の主力選手がそろっていた。

  • 課長:高橋要
  • 課長代理:奥村綱雄
  • 主任:瀬川美能留
  • 電話係:北裏喜一郎

満州を視察

満州を視察し、現地の経済について「統制経済はダメだ!」と提言した。松岡洋右や野村徳七からは認められた。 その後、京都支店長に就任。映画館を経営した。

評価・評判・口コミ

野村證券元監査役 野村康三氏

野村徳七の弟・実三郎の息子である野村康三氏(野村證券元監査役)によると、定年退職者に限らず、途中退社していく社員までも「奥村社長は人情味あふれた人で、これからも自分にとって大切な人だ」と言って去っていったという。

元日本興業銀行頭取 中山素平氏の評価

興銀頭取の超大物金融マン、中山素平氏は「一言でいえば真の大物経済人」と評価した。「豪放磊落、明朗闊達さを揃えている人物。仕事上、議論を戦わすこともありましたが、奥村さんは意見が違ってもいやな顔を見せず、にこにこ聞いておられた」という。

名言

「日々之牢獄」

作家・山崎豊子に対して、「私は社長在任11年間、社長室に座っているときは日々之牢獄の思いで過してきた」と語っていたという。


瀬川美能留

(せがわ・みのる)

瀬川美能留

【就任期間】
1959年6月~
1968年11月

【生まれ】
1906年3月

【死去】
1991年9月10日、死去。享年85歳。死因はじん不全。喪主は妻郁子(いくこ)さん。

中興の祖と呼ばれる。歴代の大物経営者の中でも1ランク上に置かれている。前任者の奥村社長の時代も、腹心として重要なアイデアを次々と提案していた。

証券業界を救った実績も高く評価されている。東証理事会議長、日本証券業連合会(現在の日本証券業協会)の会長に就任。1965年(昭和40年)前後の証券不況で業界がドン底に陥ったとき、日本証券保有組合の設立などを通じて救済した。

社長就任時の年齢

53歳

出身校

大阪市立大学(当時:大阪商大高商部)
※働きながら首席で卒業

入社年次

1929年

略歴

営業畑

一貫して営業畑を歩いだ。 広島支店、門司支店(福岡県)、静岡支店に配属。 公社債のセールスマンとして活躍した。

野村のモーレツ拡大路線の象徴

1937年以降は、新設された株式部門で、セールスマンとして活躍。 「人の3倍働けば成功する」としてガムシャラに働いた。 野村証券の拡大路線、モーレツ営業の象徴的存在だった。

40歳で取締役に

40歳の若さで取締役に就任。 1959年から1968年まで社長、その後の10年間は会長を務めた。

就任前の実績

三井グループとの関係強化

1949年5月、野村証券は放出された三井鉱山の株式を大量に引き受けた。当時常務だった瀬川氏は、この中心的な役割を果たした。

経緯

終戦直後、財閥の解体を目的として、株式持ち合いが解消される。 その結果として、株式が市場で放出されることになる。 「証券処理調整協議会(SCLC)」が株を引き受け、市場で放出する形だった。 その一環として三井鉱山の大量に出回ることになった。

瀬川氏がやったこと

瀬川は第三者の支配下になることを阻止すべきだと考えた。 そして、見事に売りさばいていった。 売却先は三井グループの役員や、三井鉱山の従業員・取引先などだった。

弱かった法人部門が浮上

この結果、三井グループから厚い信頼を得るようになった。 弱かった法人部門が飛躍する一つのきっかけとなった。

「社債」から「株式」へ拡大

「社債」から「株式」への拡大を推進した。 それまでの野村証券の引き受け業務といえば社債が中心だった。

終戦直後、中国電力に営業

瀬川氏は、電力会社などに対して、巧みに増資引き受けなどのセールスを行った。 終戦直後「復興には電力からだ」と予言し、中国電力へ営業で飛び込み、成果を挙げた。

東電の増資

役員時代に達成した東京電力(関東配電)の増資における功績も大きい。 こうして野村は、電力会社や鉄道会社などを中心に、株式の増資の際の引き受けを手掛けるようになった。

出身地

奈良県五条市

子供時代

小学5年で大阪へ転居。親は「まき」や炭などの燃料業を営んだ。裕福ではなかった。

夜間の商業学校へ

小学校を卒業後、夜間の商業学校「成器商業」に入学。昼間は台湾大阪銀行の給仕として働いた。

家業の手伝いと家庭教師のバイト

その後、父親が亡くなり、家業を手伝うようになった。大阪高商へ進学。家業の手伝いと家庭教師のバイトで稼ぎながら、3年間通った。しかも、首席で卒業した。

経営者としての実績

業界トップに

社長になった1959年当時、野村は大手の一角を占めてはいたものの、今のようなズバ抜けた存在ではなかった。 しかし、瀬川氏のもとで野村は業界トップの地位を確立した。 営業現場を知り尽くした瀬川氏により、少額の証券投資まで掘り起こす積極的な経営が進められたことが大きな原動力となった。

「ノルマ証券」の強化

「ノルマ証券」と言われた野村の厳しい営業成績重視の経営も、瀬川時代に強化された、と言われている。

債券の専門家を全国配置

1963年には、「公社債専任制度」をスタートさせた。 全支店に、公社債だけを専門に扱う担当者を配置した。

野村総合研究所を設立

証券不況の渦中の1965年、日本で初めての受託研究機関となる野村総合研究所を設立した。12億円以上を投じた。 日本の本格的シンクタンク第1号であった。

情報化投資

業界に先駆けて真空管コンピューターを導入するなど、時代の先を読んだ投資を行った。 1965年(昭和40年)の証券不況時も、情報化、機械化投資を積極的に進めた。

証券危機からの脱出

1963年の株式市場大暴落に始まる証券不況では、東証理事会議長として、時の田中蔵相らに日本証券保有組合の設立を働きかけ、戦後最大の証券危機を乗り切った。1965年1月から7月までの間に2300億円強を投じて市場を買い支え、危機脱出のため尽力した。

悪い評判・口コミ

児玉誉士夫

戦中・戦後の政財界に大きな影響力を持った右翼の児玉誉士夫と関係があった。 野村証券と児玉氏との付き合いは、ロッキード事件で起訴された児玉氏の公判記録に残されている。 1972~75年にかけての児玉氏の雑所得に「野村証券から盆200万、暮れ300万」とあった。 1973年のジャパンライン株買い占め事件の際には、当事者間の仲介に入った児玉氏が、野村証券の瀬川氏に相談し、その謝礼として瀬川氏に時価1100万円相当のダイヤモンドを贈ったことが記されていたという。

趣味

無類の野球好きで、財界人でつくる巨人軍後援会「無名会」を結成するほどの巨人ファンだった。 巨人・川上哲治氏がまだ18歳のころ、野村の課長だった瀬川氏を中心に金融界の若手の方々が集まって、川上氏を応援する会をつくった。

人柄

「明治の気骨」を持った経営者の力強さ、厳しさの一面で、情にほだされやすい一面もあった。 「九分厳しく、一分情の人だった」とも言われる。 苦学生の経験をふまえ、自分の持ち株をなげうって日本証券育英基金を設立した。

代表権を放さず

1968年に故北裏喜一郎氏に社長を譲って、会長となり、1978年には相談役に退いたが、代表権は離さなかった。 証券界の人事や利害調整などでは大きな発言権を持ってきた。

晩年

1986年(昭和61年)3月の野村証券創立60周年記念式典に出席してあいさつしたのが、公の場に姿を見せた最後だった。同年、体調をこわして入院した。

会社以外での役職

証券業界のリーダー

日本証券業協会の初代会長を務め、証券界のご意見番として活躍し、業界の発展にも尽くした。 1973年(昭和48年)に日本証券業協会を発足させた。 業界の指導者として全国10地区に分かれていた証券業協会を統合したのものだった。初代会長に就任した。

就任当時、証券界は株式市況の低迷、殖産住宅相互にからむ証券不祥事、個人投資家の株離れなど難問が山積していたが、「法律は社会道徳の最低基準。証券界は証取法より、もっと厳しく身を持さねばならない」と業界を指導、乗り切った。1965年1月から7月までの間に2300億円強を投じて市場を買い支え、証券恐慌の防止に努めた。

日本証券奨学財団を設立

日本証券奨学財団を設立し、大学生や研究者らへの助成に熱意を注いだ。 経団連常任理事、アジア経済研究所評議員なども務めた。1977年から毎日新聞相談役。

政治家との付き合い

政界とのパイプの太さも有名だった。だが、本人は「政治家との付き合いほど割に合わないものはない」を口癖にしていたといわれる。


北裏喜一郎

(きたうら・きいちろう)

北裏喜一郎

【就任期間】
1968年11月~
1978年10月

【生まれ】
1911年3月14日生まれ

【死去】
1985年10月、死去。享年74歳。死因はじん不全。喪主は長男慎一郎(しんいちろう)氏。

「理論の北裏」と呼ばれた。「先見性にすぐれ、将来への布石を常に考える経営者」という評判だった。

社長就任時の年齢

57歳

出身校

神戸大学(当時:神戸高商)
==>兵庫県立大学(当時:神戸商科大学)

入社年次

1933年(昭和8年)

入社理由

野村證券と第一銀行を受験し、いずれも合格した。すなわち「銀行か証券会社か」という選択を迫られた。 一般的には、第一銀行のほうがはるかに格上だ。 それでも野村を選んだ理由の一つは、野村にはニューヨーク支店があること。「野村なら海外勤務ができるかも知れない」と考えたという。 また、兄が銀行員だったことも影響したようだ。 経済恐慌で取り付け騒ぎが起きたとき、預金者が銀行員の兄のところに押しかけて、石を投げたりしたことがあった。

略歴

広島支店に赴任

入社後の初任地は広島支店だった。

「外貨債特別税」の苦い経験

入社4年目(1936年)のとき、政府が「外貨債特別税」を導入した。その結果、外国債券は暴落した。 決済不能となるお客さんが続出した。

本社の「株式係」へ異動

1938年2月、本社(大阪)へ異動。新設された「株式係」への配属だった。 この部署で、奥村綱雄氏(後の社長)、瀬川美能留氏(後の社長)といった上司と一緒に働くことになる。

「片岡イズム」に触れる

初代社長の片岡音吾イズムに触れる機会もあった。 他の課員とともに、片岡氏から社長室に呼ばれ、太田収氏(山一証券社長)の伝記本を手渡された。 そのうえで「野村証券の経営の本質は、平地に波乱を起こさせず、世間に目立たないようにすることだ」という言葉を聞いた。

株式課長に

1940年12月東京支店へ転勤。1943年大阪本社株式部に赴任。同年10月には「株式課長」に昇格した。

関西配電の新株を売りまくる

戦後の1946年10月、大阪支店の営業部次長に就任。「関西配電」の新株発行をめぐり、買い手を募るべく営業に奔走する。

ビラ配りが奏効

街で新株の折り込みビラを配ったところ、これが大当たりした。 同業他社の数倍の取り扱い実績を挙げた。 そのとき、後に社長となる田淵節也氏が若手営業マンとして大活躍した。

日本初の公募転換社債

1948年4月、大阪支店支配人を兼ねた株式部長に就任すると、高島屋の転換社債の引き受けを任せられた。

転換社債の公募は日本で前例がなく、ノウハウを持っていないため、「研究会」をつくった。 研究会は、高島屋の常務と信託銀行の常務を入れた3人で構成。さらに、大学教授に顧問になってもらった。 1949年3月、証券取引委員会に対して、高島屋の転換社債の発行認可を申請した。 これが日本の転換社債の第一号となった。

37歳で取締役

1949年1月、取締役に就任する。37歳だった。1950年には東京本店の支配人に就任した。

米国視察で様々な成果

1956年に米国に視察に訪れる。ここで、重要な教訓を得る。

メリルリンチのスミス社長

まず、証券大手メリルリンチでウィンスロップ・H・スミス社長への面談を希望したが、会ってもらえなかった。そこで、すぐに手紙を書き、間接的にスミス社長に渡してもらったところ、トムソン取締役(後の社長)を紹介してくれた。この対談を通じて、以下の認識を得た。

「機械化(コンピューター化)は、営業と事務を別々に考えるのでなく、一体的に推進すべきだ。そのための調整役や司令塔が必要だ」

この考えに基づき、翌1957年の組織改革で、連絡部(後の営業企画部)を新設した。

訓練生派遣へ

また、訪米の翌年(1957年)から、メリルリンチに継続的に訓練生を受け入れてもらえることになった。

「販売力のないところ証券業なし」という確信

このほか、米国の債券や株式の引き受け業務を専門とする証券会社への取材を通じて、彼らが自前の販売網を持たなければならないと考えていることが分かった。その結果、やはり野村も、メリルリンチのようにリテールを網羅する形にすべきだと考え、引き受け業務と販売を切り離すべきではないという信念が生まれたという。「販売力のないところ証券業なし」というのが鉄則であると考えるように至ったのである。

順調に昇格

1952年常務に昇進。専務から1959年6月には副社長に進み、1968年に社長に就任した。

社長としての実績・評判

「理知的で学究肌」

「理知的で学究肌」と評された。地味ながらも、証券界を「株屋」から「総合金融業」に脱皮させる役割を見事に果たした。

公社債部門が大きな柱に

債券の引き受け業務を重視し、公社債部門を強化した。株式全盛で、証券界が債券を見向きもしなかった時代だった。

利益の4割を占める

やがて国債の大量発行と公社債店頭売買高が年間2000兆円を超える債券時代が到来し、北裏氏が打った布石が花開いた。 例えば1985年9月期決算では、公社債部門が経常利益の約4割を占めた。野村証券を支える主柱にまで成長した。

「証券界随一の国際通」と評価

「証券界随一の国際通」と評価された。経済同友会などの活動にも力を入れた。経済協力委員会、国際関係委員会委員長として、東南アジア諸国連合(ASEAN)などへの経済協力に貢献した。

名言

社長に就任後、「清冽(せいれつ)な地下水」という言葉を残した。野村経営には、連綿と流れ続けてきた澄んだ地下水があって、それを汚す者は自然に淘汰されてきた、という意味だ。

引き継ぎの言葉は「きれいにやって下さい」

10年間社長を務めたあと、田淵節也氏を後継社長に選んだ。引き継ぎの言葉は「きれいにやって下さい」の一言だったという。

出身地

和歌山県美浜町

生誕

8人兄弟の末っ子

8人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。8人のうち兄2人は夭折(ようせつ)した。

父49歳、母39歳で出生

父・常松が49歳、母・小イトが39歳のときの子供だった。 当時としては偉業といえる。
なお、父は文化を愛し、漢詩や雅楽の楽器をたしなんだ。書も達者だった。

趣味

北裏氏といえば「多趣味」で知られた。禅に深い造詣を持っていた。陶芸にもいそしんだ。

童謡はプロ級

そして何と言っても「童謡づくり」の腕前がプロ級だった。代表作「アメコンコ」はレコードになって発売された。

六段の腕前だった。

死去

1985年10月30日、死去した。死因はじん不全。享年74歳。東京都品川区の関東逓信病院で亡くなった。

他界した時は相談役を務めていた。葬儀の喪主は長男・慎一郎(しんいちろう)氏が務めた。

家族

静子さん。和歌山県出身。1937年1月に結婚。見合いだった。


田淵節也

(たぶち・せつや)

田淵節也

【就任期間】
1978年10月~
1985年12月

【生まれ】
1923年10月生まれ

【死去】
2008年6月26日、死去。享年84歳。

法人ビジネスで大活躍

通称「大タブチ」。数多い野村の戦後入社組の俊才・鬼才の中でも傑出していた。 上司だった奥村氏や北裏氏から抜擢を受けた。 人間性の魅力もあって社内の信望を集め、野村の団結力の象徴として君臨した。 その力量を他証券が認め、業界のステータスアップや活性化を導いた。「証券界のドン」と呼ばれた。

入社年次

1947年

出身校

京都大学(法学部)

生い立ち

1923年10月、父が植林関係の仕事をしていた朝鮮半島の大邱(テグ)で生まれた。中学のときに日本へ移り、旧制松江高校から京都大学(法学部)へ進んだ。

特攻の教官

日本軍の予備学生制度の試験を受けて合格、少尉に任官され、長崎県・川棚の魚雷艇部隊へ配属。特攻の教官に任じられる。モーターボートに爆薬を積み、敵艦に体当たりする訓練にあたった。

後年、旅を愛し、多くの土地を訪ねたが、沖縄だけは足を運ばずに終えた。長崎での教え子が、大勢、沖縄戦で亡くなっていたためだ。

略歴

営業畑

戦後の1947年、野村証券に入社。営業畑を歩いた。

そのころ既にノルマ達成に猛烈な営業スタイルが主流だった。しかし、これに抵抗感を抱き、人間関係をじっくり築く仕事を志向した。

後に、経営者への食い込みが物を言う事業法人部で、その手法が開花する。

伝説の事業法人部長

社内で伝説的な存在になったのは、事業法人部長の時代だ。企業、銀行、大蔵省に広く顔を売った。一躍名をあげた。

銀行による間接金融から内外の資本市場を活用した直接金融へと、企業を誘導した。

顧客企業の「手品師」

顧客企業からすれば、なんでもかなえてくれる手品師のような有難い存在となった。

54歳で社長に

出世街道をばく進した。40歳で取締役、44歳で常務、48歳で専務、50歳で副社長。 そして、54歳の若さで社長にのぼりつめた。

経営者としての実績

「預かり資産」主義へ

顧客からの「預かり資産の増大」を最大の経営目標に据えた。株式売買などの手数料収入から、投資信託や社債の販売による預かり資産重視への転換だった。「営業マンの体質を、顧客の財産管理をする方向に向ける」とハッパをかけた。社長就任時に15兆円だった預かり資産は、わずか2年で25兆円に増えた。

利益が日本一に

「ガリバー野村」の地位を盤石のものにした。1985年には日本の金融機関で初めて経常利益が2千億円を突破。会長となって2年目の1987年には5000億円近くに拡大させた。トヨタ自動車や東京電力を抜き、「利益日本一」の座についた。

事業法人担当「無敵の布陣」

1980年代前半、事業法人担当の役員について、無敵の布陣をつくった。

すなわち、

  • 豊田善一専務
  • 田淵義久(小タブチ)常務
  • 鈴木政志

という最強ラインだ。

このうち豊田善一は「証券営業の神様」と呼ばれていた人物。後に筆頭副社長から三菱証券(当時:国際証券)に転じ、そこでも大活躍した。

若手を重視

戦後生まれの役員を誕生させ「キープ・ヤング・フィロソフィー」という若手重視作戦を展開した。 苦言を呈す同僚や先輩たちを、次々に関連会社や系列証券に追い出したが、若さを保ためには仕方ないだろう。

国際事業の強化

国際部門を育成した。シドニー、ソウル、北京など5カ所に事務所を新設し、海外拠点網の強化にも努めた。

実力会長

小タブチ氏との名コンビ

1985年12月に田淵義久氏に社長の座を譲り、会長となったが「大田淵、小田淵コンビ」で史上空前の株式ブームを作りあげた。 野村総研と野村コンピュータシステムの統合も果たした。

新トレーディングルーム

日本橋の本社7階に最新のハイテク機器を装備した株式トレーディングルームを整備した。1987年12月稼働。それまで本社3階にあったトレーディングルーム(広さ約900平方メートル)を、7階の講堂跡を改造したうえで移転した。フロア面積だけみても、1400平方メートルと広くなって、株式トレーディングルームとしては日本最大になった。

ハイテク・システムを装備

設備面でも、キーボードの操作ひとつで多種多様の投資情報をディスプレーに表示できるハイテク・システムを装備。株価表示も文字をこれまでの4倍の大きさにして、見やすくするなど工夫を凝らした。

他の役職

日本証券業協会会長

経団連副会長

1990年に証券業界から初めて経団連副会長に就任した。

政界人脈

政財界に知人が多く、特に竹下元首相とは長いつきあいだった。 竹下元首相を囲む若手財界人の集まりの「木鶏会」の世話人を務めたこともある。 中曽根康弘元首相の山王経済研究会の会員でもあった。 傑出した人脈形成ぶりだ。「清濁あわせのむ経営者」と評価された。

野村の不祥事

会長時代の1991年8月、衆議院の委員会に証人喚問され、次々と明るみに出た野村証券の不祥事を追及された。 大口顧客への損失補填、 特定の銘柄に関する大量推奨販売、 広域暴力団との取引などだ。

復帰と退任

不祥事で1991年に会長から相談役に退くとともに経団連副会長も辞任した。 その後「田淵復権コール」を受け、1995年に取締役に復帰し、主にアジア地域の戦力強化に注力する。 しかし、1997年、総会屋への利益供与事件が再び野村を揺るがすと、「老兵は消え去るのみ」の言葉を残し、すべての役職を去る。

晩年

野村を辞めた後は、笹川平和財団の会長職が活動の中心になった。北京大学の顧問教授として中国の学生に世界経済などを講演したりもした。 「博識、重々しい風格で、口調は穏やか」という評判だった。

死去

2008年6月26日、死去。享年84歳。死因はじん不全(心不全)。喪主は長男慎一郎(しんいちろう)氏。


田淵義久

(たぶち・よしひさ)

田淵義久

【就任期間】
1985年12月~
1991年6月

【生まれ】
1932年10月

【死去】
2023年11月8日、死去。享年91歳。死因は肺炎。

最後の大物社長。バブル期に全盛時代の「野村艦隊」を率いた。

同姓だが、縁籍関係はない

前社長と同姓で同じ岡山県出身だが、縁籍関係はない。

社長就任時の年齢

52歳

入社年次

1956年

出身校

早稲田大学(政治経済学部)

52歳で社長に

52歳の若さで社長になった。大手証券4社で一番若い社長の誕生となった。

スピード出世

取締役になってから8年。トントン拍手の出世だった。 専務会の議長を務めるなど、社内では「ミニ田淵」と呼ばれて、社長候補の本命とみられていた。 後継社長になるにあたって、「社内世論が君を推すから」と言い伝えたというのは有名な話だ。

略歴

個人営業、支店営業

入社後は、ひたすら個人営業、支店営業の畑を歩いた。個人営業のトップエリート。 法人営業を担当したのは、社長就任前の数年間だけだった。

常務時代に事業法人部門を活性化

1981年、常務に昇格。稼ぎ頭である事業法人の担当となった。 優秀な若手を抜擢する人事を行い、事業法人部門をさらに活性化させた。 後にSBIグループの社長となる北尾吉孝氏からも慕われた。

ニックネーム「毛沢東」

見た目が似ているため毛沢東というニックネームもついた。

実績

ブラックマンデーではねのける

1987年10月のブラックマンデー大暴落からの回復を盛り上げた。 欧米と対照的に日本市場は暴落前の高値を早期に上回って活況を呈した。 田淵氏率いる野村證券が市場参加者にバラ色のシナリオを示し、投資家を引きよせたことが大きかった。

世界の金融業界トップに

税引き前利益で1986年、シティコープ(米)を抜いて世界の金融機関のトップに立った。米国最大のニュース週刊誌「タイム」は1988年8月8日号で野村証券の大特集を組んだが、その表紙を飾った。日本の金融業界のトップが表紙に登場するのは初めてだった。

グループ企業の「役員定年制」

グループ企業の「役員定年制」を導入した。実際には大田淵の知恵袋といわれた故・志茂明相談役が図面を書いたものだったのだが、いかにキープヤングが野村の看板といえ、会長・社長の定年は62歳、原則として相談役も置かせないという徹底したものだった。

中期国債ファンド設立

中期国債ファンドの設立に尽力した。

米社と合弁で投資顧問会社を東京に設立

1987年、米国のシステム運用の会社と合弁で、投資顧問会社を設立した。社名は「RAM(ローゼンバーグ・アセット・マネジメント)」。米国株に特化して投資アドバイザーと投資一任業務を行った。野村グループが49%を出資し、残りは米側が出資。

「野村生物科学研究所」を解散

1988年、医薬品の動物試験会社「野村生物科学研究所」(神奈川県鎌倉市)を解散した。北裏喜一郎・野村証券元社長(当時副社長)の強力な推進で1966年に設立された組織だった。国内最大手だったが、市場開放で生き残りが厳しくなった。

辞任

1989年11月に、大和証券の1970年代の“損失保証”が発覚した。大蔵省は事後的な損失補填の禁止や営業特金の解約を指示。さらに、損失補填は1991年の証取法改正で禁止となる。

1991年6月、今度は野村証券の損失捕填が発覚する。責任をとって辞任。社長としての最後の株主総会で、「大蔵省にすべてお届けし、処理についても承認をいただいている」と真相をぶちまけた。

1995年に取締役に復帰。1997年の総会屋事件で再び退任。


酒巻英雄

(さかまき・ひでお)

【就任期間】
1991年6月~
1997年3月

【生まれ】
1935年10月

損失補てんや暴力団との大口株取引の責任を取って辞任した田淵義久社長の後を継いだ。副社長からの昇格。

温厚で物静か。証券界のドンとして君臨してきた歴代社長に比べカリスマ性はなかったが、「不祥事後の社内体制を固めるにはいい人」という期待があった。

社長就任時の年齢

55歳

社長就任前の役職

副社長
※田淵体制の縁の下の力持ち。

入社年次

1958年

出身校

法政大学(経済学部)

略歴

  • 株式部次長
  • 上野支店長
  • 梅田支店長
  • 公社債部長
  • 1981年取締役
  • 常務→専務→副社長

実家

実家が北鎌倉で本屋を営んでいた。東洋美術や禅などの書物には早くから接した。そのころから美術や陶芸には特に関心があった。

学生時代

法政大学(経済学部)

出身地

神奈川県

家族

愛妻家として知られた。

実績

1995年の株主総会で、会社の不祥事で相談役に退いていた「両タブチ」(田淵節也、田淵義久)を、取締役に復帰させた。

趣味(社長就任時)

陶芸、音楽、登山、ラグビー観戦、スキーなど多彩。

陶芸

プライベート・タイムには、芸術に親しむことで心を和ませていた。 陶芸に関しては、北鎌倉(神奈川県)にある、野村グループが所有する窯(かま)で、自分で実際に、茶碗を焼いたこともあった。 夫婦でモーツァルトなど音楽会にも出かけた。

スキー

年末年始は毎年、夫人らと、長野県の八方尾根の雪山で過ごしていた。 「足を折ったら会社に迷惑をかけるので、セフテイースキーを心掛けている」と語っていた。 熱烈なラグビー・ファンでもあった。

人事の背景

棚ぼた式で社長に昇格したという評判だった。

本来は、橘田喜和(きつだ・よしかず、副社長)氏と橋本昌三(しょうぞう、当時副社長)氏が有力だった。橋本氏は、実力会長だった大田淵の信任も厚かった。

しかし、田淵会長と田淵社長という両実力者が、会社の不祥事で相次いで辞任するという非常事態に追い込まれる。 そこで、田淵社長が急遽社長に指名したのが酒巻氏だった。 酒巻氏は、筆頭副社長として女房役を務めていた。 この人事については、社内やグループ内から不満が出た。

橘田喜和

橘田喜和(きつだ・よしかず)氏は1962年野村證券入社。1985年に、取締役(株式担当)に就任した。

「トリプルメリット相場」を演出

1980年代後半、「トリプルメリット相場」「ウォーターフロント相場」の演出者となった。トリプルメリットとは「円高」「低金利」「原油安」によって、電力会社やガス会社が恩恵を受けるという説だった。日本の株価上昇の牽引役となった。

1990年に副社長になっていた。1995年、野村ファイナンスの社長になった。

昭和体質

橘田氏は、昭和時代的な女性への「おさわり体質」を持っていたという説もある。

橋本昌三(しょうぞう)

橋本昌三(しょうぞう)も社長の有力候補だった。橋本氏は1962年野村證券入社。橘田氏の同期(1962年入社)だった。

1990年の役員人事で、橘田氏と同時に専務から副社長に昇格していた。このときは、田淵義久社長の後継候補が「橋本氏と橘田氏の2人に絞られた」と評判になった。

酒巻おろし

酒巻社長時代、「酒巻降ろし」の動きが起きた。 一部の役員が中心になって、副社長の橋本氏を担ぎ、社長交代を仕掛けたこともあった。 このときの酒巻批判のバックには、「小タブチ院政」に対する「旧世代」の猛烈な反発があったという噂が出た。

辞任

総会屋・小池隆一事件

自らが関与した総会屋事件が発覚し、1997年3月に社長辞任に追い込まれた。1997年5月に証取法違反などの容疑で逮捕された。

事件の概要

後の裁判を通じて、社長就任から1年弱の1992年5月、総会屋グループ代表・小池隆一(当時55歳)と面談していたことが判明する。 東京・新宿にある新宿野村ビル48階の野村証券のゲストハウス「野村クラブ」にて、小池は「口座運用がうまくいっていないようです。もうけさせてくださいよ」などと一任勘定取引による利益供与を求めた。酒巻が議長として初めて臨む株主総会が1992年6月に迫っていた。酒巻は小池の要求をのんで、担当役員に利益供与を指示した。

株主代表訴訟で賠償支払い

刑事裁判に加えて、取締役としての責任を問う株主代表訴訟も相次いで起こされた。他の被告らと連帯して野村証券に約3億8000万円を支払うことで1998年10月、和解した。1998年2月から7回に及んだ和解交渉では元社長らの「窮状」が酌まれ、1998年11月末に2億円を支払った後は2018年まで20年間の「分割払い」となった。


鈴木政志

(すずき・まさし)

【就任期間】
1997年3月~
1997年4月末
=暫定社長

【生まれ】
1935年6月26日

【死去】
2005年5月13日、死去。享年69歳。死因は腎不全。

40日間のみの暫定社長

会長だったとき、総会屋への利益供与事件で酒巻英雄社長が辞任し、逮捕された。急遽、ピンチヒッターとして暫定的に社長を兼務した。

人事の背景

酒巻体制の後継者といわれていた斉藤、村住両副社長は、不祥事を起こした部署の担当経験があった。 このため、「新生・野村」を再建するにふさわしい新社長の人選は難航した。 不祥事を起こした部署に関係がなく、日本証券業協会の会長などに専念していた鈴木氏が社長を兼務して事態の収拾を図ることになった。

社長就任時の年齢

61歳

社長就任前の役職

会長

前任者の新ポスト

相談役

他の主な役員人事

田淵節也、田淵義久の両取締役相談役が、取締役を退任

入社年次

1958年

出身校

東京大学(法学部)

実績

役員15人を一斉に退任させた。世代交代を断行した。 退任を迫られた役員からは「どうして自分まで辞める必要があるのか」といった文句や抗議が出た。経営会議に入っていなかったのに、たまたまこの時期に退任する役員も大いに不満だった。それでも、鈴木氏は説得した。

取締役に復帰していた田淵節也、義久の両名に退くよう求めたのも鈴木氏だった。兄弟のように親しかった田淵義久氏と話した後は、辛そうだったという。

略歴

事業法人&人事畑

事業法人畑と人事畑を歩んだ。1981年に取締役就任。

人事課長時代

「野村教」とまで呼ばれた営業一辺倒の腕力主義が野村の企業風土だった。 人事課長時代以来、それを変えようとしたが、壁は厚かった。 自身は東大法学部卒という学歴だが、それについて触れることを極力避け、酒と演歌を好んだが、それも知性派を嫌う社内対策の面もあったと言われている。

事業法人担当時代

事業法人の副社長時代、昭和シェル事件において、横尾宣政氏の忠告を無視し、東京国税局に税金を払わなかった。 これが、当局の怒りを買ったようだ。

いったんコースから外れる

1991年、野村証券が損失補てん事件で泥まみれになったときは大阪駐在の副社長だった。 先行きは系列企業の社長というのが、通常のパターンだった。 ところが、田淵節也会長、田淵義久社長が辞任に追い込まれたことで一転する。 1993年、空白となったポストを埋めるため、事件から遠かった鈴木氏が副会長に就任した。

会長就任の経緯

前任の会長の相田雪雄氏は、証券不祥事で社内が混乱した1991年、清潔さを買われて野村投資顧問相談役から野村証券に復帰した。取締役会長を務め、酒巻社長の後見役として、不祥事で混乱した社内体制の再構築に取り組んだ。

相田氏の後任

立て直しが軌道に乗り、信用回復のめどが立ったとして、1994年6月末に退陣。相田会長が退任したのを受けて、副会長から会長に昇格した。

出身地

千葉県

趣味

趣味は、ゴルフと読書。それ以上に「スポーツクラブで体を鍛えるのが好き」。

社外の役職

野村の会長だった1996年7月、日本証券業協会会長に就任した。土井定包会長(大和証券)の後任。


氏家純一

(うじいえ・じゅんいち)

氏家純一

【就任期間】
1997年5月~
2003年3月末

【生まれ】
1945年10月12日

1997年5月、総会屋への利益供与事件に関連して専務以上の役員15人が総退陣するという事態を受けての社長抜擢。新しい営業スタイルを推進した。マスコミは称賛した。

社長就任時の年齢

51歳
※野村で初の戦後生まれの社長

社長就任前の役職

常務

決定日

1997年4月22日の臨時取締役会
※4月24日に決算取締役会を控えており、それを乗り切るためにも、トップ人事を決めておく必要があったようだ。

前任者の新ポスト

鈴木政志会長兼社長は代表権を持たない会長に

他の主な役員人事

専務以上が総退陣

15人の役員の一斉退任。内訳は副社長5人、専務4人、常務3人、取締役4人

ダブル田淵は顧問に

元社長の田淵義久相談役、前社長の酒巻英雄相談役も顧問に退く。

同時昇格

伊藤俊明常務が代表権を持つ専務に。 重宗信行、木島紳、毛塚富雄の三取締役が常務に昇格。 日栄証券の後藤博信社長が専務に。

人事の背景

鈴木・暫定社長の後任選びは難航した。 後任候補の予想が日替わりメニューのように流れた。 最終的には国際派で、汚れていない審査本部担当の氏家常務に白羽の矢が立った。

野村は1997年4月1日に野村総研の証券リサーチ部門を吸収し、金融研究所を発足させていた。 この金融研究所の担当役員は「リサーチは証券ビジネスの中核」を持論とする氏家氏だった。

社長就任の要請

4月14日ごろに鈴木社長から打診を受けた。

入社年次

1975年11月

出身校

東京大学(経済学部)1969年卒業
→イリノイ大学大学院(1972年修了)
→シカゴ大学大学院博士課程(1975年修了)
→野村証券に入社(1975年、30歳)
→米国野村社長(1989年)

入社理由

30歳で入社

略歴

異色の経歴。学界出身

経済学の博士号を持つ。東大経済学部を卒業し、日産自動車に入社した。しかし、「すぐ働く気にはなれず、広い世界を見たかった」という。米イリノイ大に留学し、まもなく退社した。シカゴ大でノーベル経済学賞受賞者のフリードマン教授らに学び、博士号を取った。野村証券の門をたたいた時は30歳だった。

ひたすら国際畑

野村証券に入社したのは1975年。野村に入社してからも海外勤務が長かった。アナリスト、スイス現地法人社長、国際企画室長、総合企画室長、米国子会社社長などを歴任と、それまでの社長と比べると、異色の存在だった。スイスや米国の現地法人トップを歴任。米国での7年間、収益力で他社に差をつけ頭角を現した。

1996年に米国野村社長から帰国した後は、顧客企業の株式・債券発行の審査などを担当する常務だった。

野村証券の社長と言えば、株・債券の売買や引き受けの手数料を稼ぐ営業畑のやり手がなるというのが、通例だった。しかし、事件に無関係だったし、グローバル化の中で、白羽の矢が立った。

ちなみに、野村の入社面接で「あしたから来なさい」と言った相田雪雄氏は、1991年の損失補てん発覚後の「危機」収拾で会長を務め、その後を継いだ鈴木氏が最初の面接者だった。

就任前の実績・評価・評判・口コミ

学術肌

周囲は「ドクター氏家」と呼んでいた。 国内支店の営業経験がない純国際派。証券マンというよりも大学教授を思わせる風貌だった。

市場経済を重視

「徹底的な合理主義者」と評された。 総合企画室長だった時には、銀行や大蔵省との折衝で「向こうの言っていることの方が合理的だ」と納得して帰ってきたことがあったという。 また、市場経済を重視するシカゴ学派の総帥フリードマンから学んだだけあって、「マーケットに対する思い入れが強く、市場を大切にする人」というのが、社内幹部の評価だった。

野村証券は1997年4月に本社・本店等と並ぶ組織として金融研究所を新たに設立。従来、野村総研が担った証券リサーチ業務のうち、本体の証券業務との関連が密接な部門を引き継いだが、氏家氏はこの担当になった。

出身地

山形県

家族・親戚

氏家という名字は母方の姓。父は、故・永井勝三(かつぞう)元東芝専務。両親の結婚の際に第1子を氏家姓にする約束があった。父はおっかなかったが、心から尊敬していたという。

氏家斉一郎

日本テレビの故・氏家斉一郎・社長は親類だった。「おじさん」と呼んでいた。

実績

営業改革

氏家氏は就任後初めての部店長会議で、支店ごとの収益目標つまりノルマの全廃と預かり資産の積み上げに重点を置く資産管理型営業への転換を打ち出す。 米国経験の長さゆえに、「あの人は『アメリカ人』」などの陰口もあった。

それでも、顧客から強引に手数料を稼ぐようなスタイルを排し、「顧客本位」のビジネスを真剣に考えないと復活はない、と説いた。

持ち株会社

2001年10月には野村ホールディングスを持ち株会社とする新体制を発足させ、グループ力を高めた。

海外で巨額損失事件

社長時代に雇った米国人の巨額損失事件

米国での商業用不動産融資証券化で巨額損失を出した。氏家氏が米国野村の社長だったときに雇った米国人が、不動産担保証券の取引で大失敗したのだった。 オフィスビルなどの商業用不動産への融資を証券化して投資家に販売する事業(CMBS)が、世界的な金融混乱で価格が暴落。 1998年に11億ドルを超す事業損失を計上した。

リストラ

1998年9月中間決算段階で2000億円を超えた赤字の穴埋めの形で、国内従業員の15%に当たる2000人の削減や、東京・銀座など10支店の閉鎖などのリストラ策を打ち出した。また内外の資産売却も進め、その一環として、グループで34%余りを保有する準大手証券、国際証券株の売却を、さくら銀行など金融機関へ打診した。

ノルマ復活

国内の株式相場が急回復した1999年3月、個人営業部門で株式売買に積極的に取り組む方針を表明。同時に、1999年4月から、支店ごとのノルマを復活させた。 資産管理型営業を目指した経営方針が揺らいだ。

1兆円ファンドで失敗

「ノムラ日本株戦略ファンド」(通称:1兆円ファンド)で大失敗した。2000年2月に募集を開始。 2000年の設定時に約1兆円の預かり資産を集めながら、その直後のネットバブル崩壊を受けて基準価格が暴落した。

趣味(社長就任時)

釣り、スキー、テニス。休日に一杯(日本酒、芋焼酎、ワイン、ウォッカなど)やりながら読書し、昼寝。


古賀信行

(こが・のぶゆき)

古賀信行

【就任期間】
2003年4月~
2008年3月末

【生まれ】
1950年

社長就任時の年齢

52歳

社長就任前の役職

COO

前任者の新ポスト

氏家純一社長(当時57歳)は空席となっている代表権のある会長に就任

他の主な役員人事

野村証券の社長には戸田博史取締役(当時51歳)が昇格。

最高執行責任者(COO)には副社長に昇格する戸田取締役が、共同最高執行責任者(Co-COO)兼アセット・マネジメント(投資信託・投資顧問)部門担当には同じく副社長に昇格する稲野和利取締役(当時49歳)がそれぞれ就く。また、同社と国内グループ会社14社は4月1日施行の改正商法に基づき、同日付で「委員会等設置会社」に移行することを決めた。

人事の背景

順当な昇格人事。COOを務めていたため。

入社年次

1974年

出身校

東京大学(法学部)

略歴

人事部をはじめ、企画などの管理畑を中心に歩んだ。地方支店での勤務経験は一度もない。全国に店舗網を張り巡らす会社では異例の経歴だが、一貫して会社の土台に関わってきた。いわゆる大蔵省担当(MOF担)として中央官庁との折衝にあたるなど政官界への太いパイプを持つ。

人事部でスタート

入社直後は人事部に配属。入社4年目、1977年7月から職員部に異動。1980年(昭和55年)11月に引受部に異動。

MOF担

1984年の春、総合企画室に移った。MOF担当、通称「モフ担」になった。監督官庁である大蔵省の官僚に情報を提供したり、官僚から情報収集したりする役目だ。

たとえば、投資顧問業法の制定。投資家から株式や債券の運用を任され情報を提供する専門業者を、いかに育てて監督するか。豊かになった日本社会にはぜひとも必要な制度だった。この分野で先行している英国に出張に行き、実情をまとめて大蔵省に報告した。

1986年11月から1988年11月までの2年間は秘書室にいた。当時の田淵節也会長、通称「大タブ」さんの担当である。

1988年11月、総合企画室に戻り、再びMOF担になった。

年表

総合企画室長、事業法人一部長を歴任。

1995年6月取締役人事部長

1994年職員部長兼務

1995年取締役

1996年12月、証貯業務部長兼務

1999年4月常務

2000年6月副社長

1999年常務取締役

2000年取締役副社長

2001年野村ホールディングス取締役副社長兼COO

野村證券取締役副社長
(2001年10月野村HD副社長、野村証券グループ本部長、同月野村HD副社長業務執行責任者)

2003年野村ホールディングス取締役執行役社長、野村證券取締役執行役社長に就任。

出身地

福岡県大牟田市

子供時代

実家は酒屋。第二子(長男)として誕生。

三井三池炭鉱の町で育った。

鹿児島市の名門私立高校「ラ・サール学園」に進学。

寮生活を送った。

高校1年生の時、人の借金の保証人になり、廃業に追い込まれた。

学費の支払が難しくなったが、奨学金で勉強を続けた。

東大紛争で入試が中止となったため、一浪して入学した。

就職活動では、人事課長だった鈴木政志に世話になったという。

家族(社長就任時)

家族は夫人、一男一女の4人暮らし。

実績

人事評価制度改革

1993年、部長として再び人事部に戻った時、人事評価制度の改革に力を注いだ。それまで5段階だった評価基準を拡大し、「ダメなやつ」の努力にも光を当てた。

野村では長年、期待される一部の社員が高く評価される一方、他の社員はひとくくりにされ、平準的なキャリアを積んでいた。そんな「決めつけ」の評価は、バランスを欠いていると思ったという。

期待されているというまなざしを向けてもらえない会社では、人は頑張らない。結果はだめでも、「こういうところは本当に頑張っていたよな」と言ってあげれば、言われた人は一生懸命働く、という考え方に基づいていた。

座右の銘、モットー

中庸(ちゅうよう)

人をどう評価し、動かすのか。偏ることなく、過不足のない「中庸(ちゅうよう)」の道こそが、一番の原理だと感じていた。

中庸が大事だと思ったきっかけは、炭鉱の町、福岡県大牟田市で過ごした幼少期にある。労働争議が激しく、会社側の後押しでできた組合と、従来の組合との対立が深まった。子ども同士でも、親が所属する組合によってグループを作り、いがみ合っていた。

酒店主の子どもで、一歩引いた立場で双方を観察できた。どちらか一方の主張だけが正しいわけでも、間違っているわけでもない。どちらかに偏ることは、あまり良い結果を出さないというのが、自分の信条になった。以来、心がけているのは「ど真ん中」の道だという。

趣味(社長就任時)

週末はゴルフか散歩を楽しむ。

白髪交じりの頭に、浅黒く角張った顔。趣味を問われ、朴訥(ぼくとつ)とした口調で「無趣味」と答える姿は、武骨な九州男児(福岡県出身)そのもの。


渡部賢一

(わたなべ・けんいち)

渡部賢一

【就任期間】
2008年4月~
2012年7月末

【生まれ】
1952年10月

2008年に野村がリーマン・ブラザーズの欧州・アジア事業を承継した

野村HDは2008年、経営破綻(はたん)した米証券大手リーマン・ブラザーズのアジア・欧州部門を買収するなど、経営のグローバル化を進めている。しかし、2011年以降、欧州の政府債務(借金)危機が直撃。海外部門の赤字がふくらみ、2011年4~12月期決算では純損益が104億円の赤字(前年同期は167億円の黒字)となった。

社長就任時の年齢

55歳

前任者の新ポスト

野村証券会長(新設ポスト)

他の主な役員人事

HDと野村証券の新社長兼最高経営責任者(CEO)に渡部賢一野村証券副社長(当時55歳)が就任する人事を決めた。副社長兼業務執行責任者(COO)には柴田拓美野村アセットマネジメント社長(当時55歳)が就任。

氏家純一HD会長(当時62歳)は留任し、古賀信行社長兼CEO(当時57歳)は、新設する野村証券会長職に就く。

人事の背景

渡部氏の指名にあたり古賀氏は「バランス重視の自分とは異なる性格を持った人。90年代後半にさまざまな局面で活躍し、広範囲なことを受容する力がある」と評した。

古賀社長は渡部次期社長を後任に指名した理由について「性格は私と異なる。経営の基軸を変えるという意味では、違うスタイルの方が会社が活性化する」と語った。

入社年次

1975年

出身校

神戸大学(経済学部)

略歴

  • 1998年6月取締役
  • 2000年6月常務
  • 2001年野村HD取締役兼同証券常務
  • 2002年4月証券専務
  • 2003年6月HD取締役退任、執行役、証券取締役兼専務執行役
  • 2006年3月HD執行役退任
  • 2006年4月国内部門CEO、証券執行役副社長。

日系金融機関が国際的なプレゼンス(存在感)を高めた90年代前半、海外業務企画部長を務めた。

ロシア危機などで世界の金融市場が揺れた90年代後半に企画や財務を担当した。

出身地

兵庫県

実績

リーマン・ブラザーズの欧州・アジア部門を買収

2008年秋、破綻した旧リーマン・ブラザーズの欧州・アジア部門を買収し「グローバル証券」への飛躍を目指した。

しかし、旧リーマン出身者の高額な人件費などでコストがかさむ一方、欧米経済低迷などで海外収益は伸びず、2009年3月期には7000億円超の巨額の最終赤字を計上。2011年秋には旧リーマン部門の大規模なリストラに着手した。

不祥事への対処で失敗

2010年に相次いだ大型公募増資を巡り、大手ファンドなどを顧客とする「機関投資家営業部」の社員が、一部の有力顧客に未公表の公募増資情報を漏らす行為が横行していた。

未公表の増資情報を有力顧客に伝え、インサイダー取引によるもうけの機会を提供する見返りに、野村を通じた証券売買の注文量を増やしてもらったり、増資した企業の新株を引き受けてもらうのが狙いだった。

野村が2012年6月29日に公表した第三者委員会の報告書は「部を挙げて、収益のためには手段を選ばなかった」と指弾。業界では「最大手の野村の収益最優先の営業慣行が他の証券にも影響し、増資インサイダーが蔓延(まんえん)した」とも指摘される。

証券取引等監視委員会は2012年3月以降、国際石油開発帝石の増資インサイダー取引など野村が情報源となった不正案件を3件も摘発。金融庁は、野村に自ら実態解明に動くように促した。

しかし、渡部CEOら経営陣は当初、事態を甘く見て、十分な社内調査を行わず、営業社員の個人的な暴走として問題を矮小(わいしょう)化しようとさえした。

野村が自社からの情報漏えいを認めたのは3件目のインサイダー取引が発覚した6月8日になってから。「野村には自浄能力がない」と不信感を高めた金融庁内では「ナベケン(渡部CEO)の首をとるまで追及する」との声も上がった。

渡部CEOは6月29日、増資インサイダー問題で初めて記者会見し、第三者委の調査報告書とともに、自らの報酬50%半年削減や機関投資家向け営業の一時自粛、再発防止策などを発表。問題の幕引きを図ろうとしたが、金融庁は「これで終わりと考えているなら、認識が甘い」(幹部)と冷ややかだった。

一方、営業面ではJT(日本たばこ産業)の政府保有株売り出しの主幹事から落選したほか、日本航空の再上場でも中核的な主幹事業務から外されるなど「野村外し」が加速。野村社内でも「渡部CEO体制のままでは持たない」との声が一気に広がった。


永井浩二

(ながい・こうじ)

永井浩二

【就任期間】
2012年8月~
2017年3月末

【生まれ】
1959年1月25日

国内営業部門の経験が長い

社長就任時の年齢

53歳

社長就任前の役職

野村証券社長

他の主な役員人事

増資インサイダー(情報漏洩)問題で、グループ最高経営責任者(CEO)の渡部賢一氏(当時59歳)、グループ最高執行責任者(COO)の柴田拓美氏(当時59歳)のトップ2人が責任を取って31日付で辞任し、永井浩二野村証券社長(当時53歳)が8月1日付でCEOを兼務する。

柴田氏の後任には吉川淳野村HD専務(当時58歳)を充てる。

人事の背景

既に判明しているみずほフィナンシャルグループなど3件以外に追加調査で新たに情報漏れが疑われた事例が確認された。

入社年次

1981年

出身校

中央大学(法学部)

略歴

国内営業部門の経験が長い

大阪支店長などを経て2009年専務、2011年副社長。

2012年4月から野村証券社長兼野村HD執行役員。

出身地

東京都

実績

2019年は東京証券取引所の市場再編に絡む情報漏えい問題が起こり、6月の株主総会では続投への賛成比率が大幅に低下していた。

動画


奥田健太郎

(おくだ・けんたろう)

奥田健太郎

【就任期間】
2020年4月~
現在

【生まれ】
1963年11月

企業の合併・買収(M&A)関連などの業務を手掛ける投資銀行部門が長く、米州地域のトップを務めたこともあり、海外の経験が豊富だ。

社長就任時の年齢

56歳

前任者の新ポスト

代表権のない会長に

入社年次

1987年

出身校

慶応大学

略歴

企業の合併・買収(M&A)関連などの業務を手掛ける投資銀行部門が長く、米州地域のトップを務めたこともあり、海外の経験が豊富だ。

2018年4月に傘下の野村証券の森田敏夫社長(当時58歳)と並び、野村HDの共同グループ最高執行責任者(COO)に就いていた。

2019年4月から野村HD副社長を兼務。

出身地

埼玉県さいたま市出身。

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付録:田淵義久社長の政策

シナリオ相場の演出

1980年代後半の野村証券は、相場を左右するシナリオを作り、ことごとく成功させてきた。シナリオは例えば以下の通り。

      1:世界最大の債権国になった日本には「債権国ダイナミズム」がある。
      2:大債権国日本の首都東京に金融センターは絶対に必要で、その場所は「ウオーターフロント(東京湾岸)」しかない。
      3:ウオーターフロントに土地を持っているのは、鉄鋼、造船といった重厚長大産業で、事業の「リストラクチャリング(再構築)」を進めている。
大型株を売買させる

シナリオ営業は、大企業の株、つまり大型株の商いを推奨する内容だった。株式流通量の多い大型株を売買すれば手数料がたくさん入ってくる、という仕組みだった。

IHI推し

大型株の代表が、石川島播磨重工業(IHI)だった。IHIは、ウオーターフロントの中心、東京都江東区豊洲に38万平方メートルの広大な土地を持っていた。

この「資産」を前面に押し出して、徹底推奨した。野村は、「ポートフォリオウィークリー」という書類を毎週作って、各支店に配っており、「社内限」と記された書類は「注目銘柄」として、顧客に推奨する銘柄を挙げている。1987年7月以降でみると、1987年7月6日号から1988年3月22日号まで、36週間連続、IHIを注目銘柄にした。

この間、何回も東京湾岸の地図を載せ、「航空、宇宙で再飛躍」「国策にのるIHI」「竹下新政権誕生で実力発揮のIHI」などと煽った。造船不況に悩むIHIは当時、大合理化を進め、業績も低迷していたのに、株価は1986年1月の150円が、1200円を超えた。

米社と合弁で投資顧問会社を東京に設立

1987年12月、システム運用で急成長している米国の投資顧問会社、RIEM(ローゼンバーグ・インスティチューショナル・エクイティ・マネジメント)社と合弁で投資顧問会社「RAM(ローゼンバーグ・アセット・マネジメント)」を、東京に設立した。

米国株の投資助言

米国株に特化して投資アドバイザーと投資一任業務を行った。

新会社の資本金は3億円で、RIEM社が51%、野村グループが49%を出資した。

社長にはRIEM社のウィリアム・カーン氏、副社長には野村の吉原正義・海外営業本部付部長がそれぞれ就任した。

一任勘定の認可

新会社は1988年1月末に投資顧問会社として登録。一任勘定の認可を得た。

野村投資顧問は10%出資

新会社は本店を東京都中央区日本橋本町1ノ8ノ16に置き、株主構成はRIEM社が51%、野村グループは野村総研24%、野村証券投資信託委託、野村投資顧問が各10%、野村証券が5%。

「野村生物科学研究所」を解散

1988年9月末に、グループの「野村生物科学研究所」(神奈川県鎌倉市)を解散した。

医薬品の動物試験で国内最大手

医薬品の動物試験では国内最大手だったが、米国などから「日本独自の検査基準は非関税障壁」と厳しい批判を浴び、政府が医薬品の市場開放に踏み切ったため、欧米のライバル社に太刀打ちできなくなった。

年商20億-25億円

野村生科研は年商20億-25億円程度。数十の中小企業が乱立する動物試験の委託研究機関ではトップだった。

当初は野村総研の一部門

発足は1966年(昭和41年)。当初は野村総研の一部門で、最先端のライフサイエンス(生命科学)の研究が目的だった。

北裏喜一郎社長

北裏喜一郎・野村証券元社長(当時副社長)が、サンフランシスコのスタンフォード研究所のように社会科学と自然科学の両部門を持つ研究所を作ろうとしたのだ。

厚生省(厚生労働省)が、薬品の安全性確認の基準を欧米に合わせ、段階的に改める動きは1985年(昭和60年)のアクション・プログラム以降、活発になってきた。

欧米勢に負ける

その後、研究員らが薬品メーカーを回っても、「向こうはおたくの3割安とか半値ですから」と断られるケースが増えてきた。「向こう」とはヘーゼルトン(米)、LSR(英)、ハンチントン(英)など。野村生科研の10倍前後のスタッフを抱えていた。

円高で人件費などコスト格差も広がった。

世界展開が有利

薬品の場合、各国に申請を出すのが通常だ。数カ国に研究施設を持ち、各国の申請手続きに詳しい欧米各社の方に利があった。

欧米勢の攻勢を受け、「本業ともかけ離れているのに、規模拡大で対抗するのは無駄」と判断、解散を決めた。

社員120人

生科研の社員は約120人。60人近い男性研究員は約20社に散った。再就職先は三共、中外製薬、キリンビール、アサヒビールなど国内の大手化学、薬品、食品メーカー。

アップジョン、サンド薬品など海外の大手薬品メーカーの在日研究所に招かれた人もいた。

年収4割減も

ただ、野村証券に準じて給与の高かった生科研時代より「年収が4割減」という人もざらだった。