野村証券(野村ホールディングス)の歴代社長の一覧(評判・評価)
付録:田淵義久社長の政策
シナリオ相場の演出
1980年代後半の野村証券は、相場を左右するシナリオを作り、ことごとく成功させてきた。シナリオは例えば以下の通り。
- 1:世界最大の債権国になった日本には「債権国ダイナミズム」がある。
- 2:大債権国日本の首都東京に金融センターは絶対に必要で、その場所は「ウオーターフロント(東京湾岸)」しかない。
- 3:ウオーターフロントに土地を持っているのは、鉄鋼、造船といった重厚長大産業で、事業の「リストラクチャリング(再構築)」を進めている。
大型株を売買させる
シナリオ営業は、大企業の株、つまり大型株の商いを推奨する内容だった。株式流通量の多い大型株を売買すれば手数料がたくさん入ってくる、という仕組みだった。
IHI推し
大型株の代表が、石川島播磨重工業(IHI)だった。IHIは、ウオーターフロントの中心、東京都江東区豊洲に38万平方メートルの広大な土地を持っていた。
この「資産」を前面に押し出して、徹底推奨した。野村は、「ポートフォリオウィークリー」という書類を毎週作って、各支店に配っており、「社内限」と記された書類は「注目銘柄」として、顧客に推奨する銘柄を挙げている。1987年7月以降でみると、1987年7月6日号から1988年3月22日号まで、36週間連続、IHIを注目銘柄にした。
この間、何回も東京湾岸の地図を載せ、「航空、宇宙で再飛躍」「国策にのるIHI」「竹下新政権誕生で実力発揮のIHI」などと煽った。造船不況に悩むIHIは当時、大合理化を進め、業績も低迷していたのに、株価は1986年1月の150円が、1200円を超えた。
米社と合弁で投資顧問会社を東京に設立
1987年12月、システム運用で急成長している米国の投資顧問会社、RIEM(ローゼンバーグ・インスティチューショナル・エクイティ・マネジメント)社と合弁で投資顧問会社「RAM(ローゼンバーグ・アセット・マネジメント)」を、東京に設立した。
米国株の投資助言
米国株に特化して投資アドバイザーと投資一任業務を行った。
新会社の資本金は3億円で、RIEM社が51%、野村グループが49%を出資した。
社長にはRIEM社のウィリアム・カーン氏、副社長には野村の吉原正義・海外営業本部付部長がそれぞれ就任した。
一任勘定の認可
新会社は1988年1月末に投資顧問会社として登録。一任勘定の認可を得た。
野村投資顧問は10%出資
新会社は本店を東京都中央区日本橋本町1ノ8ノ16に置き、株主構成はRIEM社が51%、野村グループは野村総研24%、野村証券投資信託委託、野村投資顧問が各10%、野村証券が5%。
「野村生物科学研究所」を解散
1988年9月末に、グループの「野村生物科学研究所」(神奈川県鎌倉市)を解散した。
医薬品の動物試験で国内最大手
医薬品の動物試験では国内最大手だったが、米国などから「日本独自の検査基準は非関税障壁」と厳しい批判を浴び、政府が医薬品の市場開放に踏み切ったため、欧米のライバル社に太刀打ちできなくなった。
年商20億-25億円
野村生科研は年商20億-25億円程度。数十の中小企業が乱立する動物試験の委託研究機関ではトップだった。
当初は野村総研の一部門
発足は1966年(昭和41年)。当初は野村総研の一部門で、最先端のライフサイエンス(生命科学)の研究が目的だった。
北裏喜一郎社長
北裏喜一郎・野村証券元社長(当時副社長)が、サンフランシスコのスタンフォード研究所のように社会科学と自然科学の両部門を持つ研究所を作ろうとしたのだ。
厚生省(厚生労働省)が、薬品の安全性確認の基準を欧米に合わせ、段階的に改める動きは1985年(昭和60年)のアクション・プログラム以降、活発になってきた。
欧米勢に負ける
その後、研究員らが薬品メーカーを回っても、「向こうはおたくの3割安とか半値ですから」と断られるケースが増えてきた。「向こう」とはヘーゼルトン(米)、LSR(英)、ハンチントン(英)など。野村生科研の10倍前後のスタッフを抱えていた。
円高で人件費などコスト格差も広がった。
世界展開が有利
薬品の場合、各国に申請を出すのが通常だ。数カ国に研究施設を持ち、各国の申請手続きに詳しい欧米各社の方に利があった。
欧米勢の攻勢を受け、「本業ともかけ離れているのに、規模拡大で対抗するのは無駄」と判断、解散を決めた。
社員120人
生科研の社員は約120人。60人近い男性研究員は約20社に散った。再就職先は三共、中外製薬、キリンビール、アサヒビールなど国内の大手化学、薬品、食品メーカー。
アップジョン、サンド薬品など海外の大手薬品メーカーの在日研究所に招かれた人もいた。
年収4割減も
ただ、野村証券に準じて給与の高かった生科研時代より「年収が4割減」という人もざらだった。